何を成すか以前にどうあるべきか
新渡戸稲造の「武士道」が沢山書店に並んでいる時期があった。私もその時期に初めて手に取った。
この記事を読んでくださってる方にはバカにされそうだが、私はその時まで英書の「BUSHIDO」が翻訳だと思っていた。
ふと気がつくと、日本語の「武士道」に奈良本辰也訳とある。
武士道は英書が原書なのだ。
新渡戸はこれでもかというぐらい、西洋思想や西洋文学と武士道の類似点や相違点を並べ立てている。西洋人に日本や東洋の思想が決して西洋思想に劣らない素晴らしいものであることを発信しなければならないという意気込みを感じる。
SNSの発達したいま、一部のインテリだけではなく広く世界の庶民にも、日本や東洋のものの考え方について発信することが大切なのだと思う。
ところで、この「武士道」を読むにあたって、私のお勧めは対訳ニッポン双書のものだ。翻訳が客観的で翻訳者の思いにあまり左右されないし、頁の端に絶妙のタイミングで訳注が入る。
さらに解説書としてお勧めなのは角川oneテーマ21の「高校生が読んでいる『武士道』」だ。
こんなのを高校生が読むのかと感心してしまうが、新渡戸の次のようなエピソードが紹介されている。
一高の校長だった新渡戸が講堂に入ってくるなり「俺の名はNitobe,Not to do,but to be」と黒板に書き、生徒はみな度肝を抜かれたというところ。
これは難しい。
to be,to doが並ぶと、思い浮かぶのは丸山真男の「であることと、すること」なのだけれど、丸山の趣旨はNot to be,but to
doだ。
私の場合、丸山真男の「であることと、すること」は高校の国語の教科書で出会ったのだが、初めて法律的なものの考え方との出会いだったと思う。岩波新書の「日本の思想」に収録されている。
新渡戸も「義」と「勇」の関係に関して、正義は行動を伴わないと価値がないと考えているらしいところは丸山と同じだが、勇気は義のために実践されるものでなければ徳としての価値はほとんどないとも言っている。
何を成すかという以前に、どうあるべきかという意味だろうかと想像しているのだが。